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痩せ枝や 花尾踏みしめ いくとせを
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自分の底が見えてしまう恐怖

 
 僕は自分の底を相手にさらしてしまう恐怖と常に隣り合わせでいる。それは他の人にとっても同じだと思う。
 
 そんなことを考えたきっかけは些細なことだ。ワールドオーダーというパフォーマンス集団がいる。ワールドオーダーのすごさというのは目に観てわかりやすい。でも、それを人に勧めるということに僕は非常に恐怖を覚える。
 
「この動画の、この部分がすごいんだ!」と語った瞬間があったとする。パソコンの前に数人が集まっていた場での話だ。そのとき帰ってくる「すごいですね」という返答が果たして社交辞令なのか本心からなのか考えたことはあるだろうか。俺はある。常にそうだ。
 
 俺はその、自分がすごいと思っているものが他人にとってどうでもよかった、という瞬間を恐れている。それはきっと俺が書いている小説についてもそうなんだと思う。本を薦めるときだってそうなんだと思う。嬉々として人に漫画を薦める人や動画を見せる人、音楽を聴かせる人を前にすると、俺は自分の身に置き換えてひどく恐れを抱く。それが的外れであろうとなかろうとだ。
 
 以前こんなことがあった。実に偉大とされる先輩と同席した徹夜の日、俺はまだ大学の一回生だったが、俺はその先輩と同席していた同期に格闘技の試合を見せた。PRIDEという団体のベストバウトに数えられる、評価されている試合だった。誰もがわかる、わかりやすいすごさに満ちた試合だと思った。しかし反応は芳しくなく、皆が冴えない顔をして「すごかったよ」と心にもないことをつぶやいていた。俺は気恥ずかしさ以上に恐怖を覚えた。俺がすごいと思っているものは、こんなにもどうでもいいことなんだと思った。
 
 小説についてもそうなんだと思う。俺は人に勧めたい小説が山のようにある。でも大学に入ったばかりのころ、熱心にその本を進めたが、熱心に聞いてくれた先輩も、ついにその本を読むことはなかった。自作の小説についてもそうだ。俺が問題意識として持っているものの意義や内容のおもしろさについて、自分の中で絶対の価値を置いていたとしても、他人にとっては駄作であることは往々にしてありえるし、そういう時の方が多い。自分の底を見せてしまった、と俺は恥ずかしい以上に恐怖する。
 
 俺は昔は多くの人に自作の小説や詩を見せて回って、感想を得ていた。だが最近はそれをしない。恥ずかしいからではない。大人になって気恥ずかしさや自尊心が傷つく恐れを抱いたのではない。俺は自分の底を見せることに恐怖しているのだ。先輩がいた頃は良かった。自分の未熟さを未熟さとして受け止めてくれる人がいたからだ。今は違う。俺は本当にたいした人間ではないのに、いつの間にか大学というこじんまりした場所の最年長になってしまった。
 
 この恐怖、自分が見透かされているのではないか、自分の底を相手が伺っているのではないかという恐怖は大学二年の頃、後輩が入ってきたときにはじめて 感じ、それはいつしか俺を白亜の壁で囲うまでになっていった。俺は恐怖している。今の瞬間にも恐怖している。
 
 そろそろ止めよう。
 
以上。

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