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痩せ枝や 花尾踏みしめ いくとせを
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思い出話でもしましょうか。 「ユッケ」と言えば皆さんの中には焼き肉屋メニューのユッケが浮かぶでしょうが、私にとってユッケという文字が連想させるのは一人の人物です。それは高校時代の同級生なのですが、頭の中に残っている思い出話をこうして外部のどこかしらに残しておくという意味で、良い機会ですので書き付けておこうと思います。 私はユッケというあだ名をもった彼のことをユッケと呼んだことがありません。いつも苗字で呼んでいたように思います。彼は私のことを苗字にくん付けで呼んでいたでしょうか。記憶は朧気です。かれこれ彼とは三年以上も連絡を取り合っていません。最後に連絡を貰ったのは、彼が地元に足を運んだ際、一緒に恩師を訪ねようと誘われた時でしょうか。私は休みが合わずに実現しませんでしたが、あのとき既に私の気分は脆弱を極めており、今考えれば会わなくてよかった、何も話せなかっただろうと回想しています。 私が何故彼のことをユッケとあだ名で呼ばなかったのかといえば、何年も経ってから思い返すに、きっと距離を置きたかったのだと思っています。私はユッケと距離を置きたかった。多分それは間違いではないと思います。私にとってユッケという人物は友達とか同期とか部活の仲間とかではなくて、誤解を恐れず言うなら敵であったのだと思います。 ユッケと私は高校の部活の同期でした。高校に入って最初に私が所属したのは剣道部でしたが、先輩と折り合いがつかず、一年生の秋には籍だけ置いて道場には足を踏み入れませんでした。すっかり部活もせず腐りきっていた私ですが、一年の冬の進路相談三者面談において、担任の先生に一日のスケジュールを報告せよと言われました。その際、私は帰宅後3時間インターネットに張り付いていることを正直に告白しました。先生は「何をしているの?」と聞いて来たので、私は「ネタ探しです」と答えました。「小説のネタです。書いているんです」と答えました。先生は国語の先生だったのですが、「そういえば、今年から文芸同好会が発足したのは知っている?」と聞いて来ました。思えばそれが全ての始まりでした。文芸同好会は5人の部員がいましたが、実際に活動しているのは二年生3人に一年生1人の、部活として承認される前の同好会としての小規模な集団でした。私はその翌日には職員室を訪れ、文芸同好会の世話人をしていた清水先生を訪ねました。清水先生にはその後今現在まで恩師として世話になっているわけですが、清水先生は早速当時の会長と副会長と私を引き合わせました。数日後にメンバーと顔を合わせると決めた後、先生は一冊の同人誌を渡してきました。文芸同好会の第一歩としての会誌でした。 放課後、中庭の自販機裏で腐って風化したベンチに座って延々と話をしました。オタクのような話です。アニメとかラノベとかの話をしました。私は当時ラノベもアニメもあまり詳しくなかったので、ただただ「この人達はやばい」と思うばかりでした。当時の会長とは現在でも交流がありますが、思えば現在まで一番文芸に近い仕事をしているのは会長でした。 少しして、一人のメガネの青年がやってきました。会長は彼のことを「ユッケ」と呼びました。その後本名で自己紹介してくるユッケを見て、私は「こいつか」と身構えてしまいました。その時の私の動揺といったらありませんでした。ユッケに伝わっていなかったことを祈るばかりです。 全ては会誌創刊号を読み終えたところから、私から「ユッケ」に対する因縁は始まりました。彼があの一冊の同人誌に寄せたひとつの短編小説を読み、私は「あぁ、自分のしていたことはおままごとだった、お遊びであった」と、顔面にガーンと拳を喰らったような衝撃を受けました。その一篇を読んでからユッケの顔を見るまで、或いはその後現在に至るまで、私にとってユッケは「ライバル」と言えるシンボル、アイコンになりました。 私にとってのユッケのアイコンとしての大きさは語り始めると止めどありませんので、その気になったらまたいつかの機会に書くことにします。今はただ、唐突に思い出された彼の若々しい顔に胸が締め付けられたことだけを報告させていただこうと思います。 ただ、付け加えておくなら、ユッケとのファーストコンタクト以来、高校三年間を通してユッケという人物への過大な評価は確実に萎み、ユッケの等身大の才能や努力に目が行くようになりました。それはそれで確実に私の中でのユッケへの対抗意識は刺激されていったのですが、三年間を通じて彼が書き連ねていった小説たち、卒業に際して彼が制作した個人誌の内容を見ても、私はユッケが自分と同世代同期の素人作家であるという実に現実的な評価を下すようになりました。彼の情熱は小説のリアリティよりもエンターテイメントの方向に向かっていき、書き口も重厚さを失って軽快な様相を見せていったからです。これはいささか私を失望させました。肩肘を張った文章を好んでいた当時の私は、ライト層に向けた作品を連ねるユッケの姿を見てぼんやりと「やはりこいつと俺とは違う」などと思って冷め切っていました。そのうちユッケは作品が県で評価され、私の作品も外部で評価されました。そしてその評価を笠に着て大学に自己推薦をたたきつけ、私は合格して現在に至ります。私は未だに「自分の小説で入学したのだ」などとうそぶきますが、実際は別に添付した読書感想文の評価であろうと自覚しています。しかし当時の私はようやくそれでユッケと肩を並べて、同期は2人しかいない文芸部において双璧である、俺はユッケの噛ませ犬じゃない、などと思えるようになりました。高校三年の秋のことです。 しかし、やはりそれで外見は双璧に見えたかも知れませんが、依然として私の中での、あの創刊号のユッケの小説が頭の中にこびりついて離れませんでした。とにかく、私は衝撃を受けたという点に於いて、ユッケの創刊号を超える素人小説に出会ったことがないのです。 加えて言うなら、私が入会した後、二年生の生徒総会で、我らが文芸同好会は正式に部活に承認され、文芸部となりました。私は文芸部の第一期メンバーになったわけです。部活になってから刊行された部誌第二号には私の100枚の中編エンタメ小説が載りました。清水先生は当時の部員メンバーを総じて作家集団として扱って下さり、その中に私も入れてくださいました。 しかし、私は所詮第二号からの参加なのです。同好会の最初期メンバーではないのです。これは永遠に変わらない事実です。ユッケは最初から創刊号に名を連ね、私は第二号からだったのです。 些細な話かもしれませんが、私が今現在まで引きずるユッケへの苦手意識はそこにも起因しています。はっきり言って、ユッケの創刊号の短編小説、その隣に自分の作品が肩を並べられなかったことが悔しくてたまらないのです。 でも仕方ないですよね。終わったことです。 私は彼のことをライバルだと思っています。ユッケの人としては友人として好きです。ユッケの作家としての姿も私は好きです。でも彼が書いたたった一つの短編小説が、私に素直な友情表現を許しません。 恐らくは、私は死ぬまで彼のことを横目で見ながら、視線が合わないように細心の注意を払う生活をするのでしょう。仮に彼が目の前にいようがいまいが、極端な話、彼が死亡したとしても、私はずっと彼と視線を交差させられない人生をおくるのだと思います。 私が死ぬか、完全に筆を折る瞬間まで。 以上。 PR | カウンター
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もったいないお言葉、ありがとうございます。