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「日常」が終わりましたねぇ


 かなり評価が悪いらしくて、DVDも全然売れてないっていうアレらしいですが、私はすっごく好きでしたよ、「日常」。んで、ちょっとうすらボンヤリ考えたことを書き付けてみようかな、と思って書いておきますね。

「日常」ってのはそもそもギャグマンガで、それを理不尽系ギャグアニメとして京アニが制作した、っていう触れ込みだったわけですから、こういうのにストーリー性とか求めちゃ行けないんでしょうけれど、どうもなんだかメインキャラクターたちの立ち位置というか、そういうのが気になったので、そんな内容を書いてみようと思います。

先に言っておきますが、この話に結論はありません。ただの構図の整理です。ここから発想を得て評論にしてくれる人がいるなら是非どうぞ。まぁあんまりおもしろい着眼点ではないので、何とも言い難いですが。

まず、どうやら「日常」ってのは評判が悪いらしくて、全然ウケてないらしいんですよ。私はかなり腹を抱えて笑った面があったのでその辺の「面白くない」っていう指摘がよくわからないんですが、まぁギャグマンガっていうのは往々にして人のツボ如何で主観的に面白さが決まるモノですから、まぁそういう指摘は反論も出来ないし批判にもならないと思います。敷いて言うならマジョリティーのツボにはまるところを抑えられなかった失敗ではあると思いますが、まぁそれはおいておいて。

どうやら言う人に言わせると、「日常」は「ギャグマンガ」としてのテンポに対して、「萌えアニメ」に重点を置く京アニが解釈を加えた事によるミスマッチ、それが失敗である、ということらしいですよ。まぁそう思うと、何話だったか忘れましたが東雲なのにコケ機能が付いた件などは実にギャグマンガ的なメタをつかっていたでしょうし、あそこで絵が動くっていうのは一種の間のぶちこわしになるでしょうから、なるほどなぁ、とは思いますが、でも往々にしてこう、読者のペースを置いてけぼりにしながら理不尽に事が進む、という全体としての「日常」の印象を見たとき、私は「あー、理不尽ギャグっていうのをこういうものだとするなら、私が好きなアニメってこういうのなんだなぁ」って思いました。なんというか、いちいち深刻にならないですむというか、娯楽として見れたんです。まぁもちろん萌えアニメっていう俗っぽい価値観を通して見てみると「ん?」とは思いましたが。

で、私が気になったのは、最終話とその一個前あたりの話における、「ゆっこ」「みお」「まい」「なの」の四人をひとくくりにするムーブですね。あれが非常に気になった。あと、1クール目のエンディングムービーにおける構図、あれもあきらかに「ゆっこ」を筆頭とする三人組と、「なの」をはじめとする東雲研究所の二つの主軸の交差、あるいは融合を意識しているのはまぁ多分間違いないと思います。

加えて言うと最終話一個前の、あの、思わせぶりなラストシーン、一羽だけ止まっている電線に加えて三羽止まって、四羽で飛び立っていく、というあのシーン。アレは実にこう、「みお」に対して「ゆっこ」「まい」「なの」がいるよ! ずっと友達でいてあげるよ! みたいな良いシーンなわけですけど、これって説得性あるのかな、とか思っちゃうわけですね。こういう私が素直に見れない原因っていうのはただ一人「ゆっこ」の存在でして、まぁ彼女がなかなかくせ者なのですね。

「ゆっこ」の性質を語る上で多分言及されるのは方々への関わり方で、「なの」に対する笑顔の天才カット。あのシーンは印象的なんじゃないかとも思います。まぁいいはなしだなー、的な感じでしかみていなかったのですが、この話って、全体を通してあの「みお」を慰めるシーンのように、四人の絡みじゃないですよね。具体的に言うと「ゆっこ+なの」と「ゆっこ+みお」と「ゆっこ+まい」じゃないですか。この四人組の構成っていうのには常に「ゆっこ」が中心にないと成立しないわけですよね。なのにごくごく自然な形で四人が一緒にいる光景が想像出来るし、実際描かれても違和感がない。ここにむしろ私は違和感を感じたのだなぁ、なんて思います。

まぁ「まい」に関してはあらゆる形であらゆる人と関わっているのですが、明らかにコミュニケーション不全に陥ってますから、これを繋がりと考えていいのかどうかについてははなはだ疑問です。たとえばこの中で「ゆっこ」が突然消え失せたとして、残りの三人は三人組として定着するのか、といったら、どうなんだろうなぁ、無理なんじゃないかなぁ、なんて思わなくもないのです。

1クール目のエンディングにおける学校の三人組と東雲研究所の二つの主軸、これが必ずしも最終話のように一体化していないことは、何話だか忘れましたがあの、「はかせ」と「阪本さん」が散歩で犬に遭遇し、「ゆっこ」と「みお」が噛まれて衛星破壊光線を放つあのシーンでも見えます。あそこでの「はかせ」と「みお」の会話を考えれば、必ずしもその時点で東雲研究所と学校の三人組が綿密でないことがわかります。その話以降で絡みが見えるのかといえば、そういう言及のないままに、最終話で「まい」ちゃんは「はかせ」の誕生日を提案します。これはどういうことなんでしょう。

文学研究において「これは作者のミス」というセリフは最終手段であり、あらゆる描写、あらゆる表現には意図がある、と疑うところから発想が始まります。それを考えればこの「日常」において、主人公たる存在は「ゆっこ」に違いないだろうと思うわけですね。或いは、主人公が別にいるとしても「ゆっこ」が「日常」における主軸であることは間違いないと思うのです。不思議なもんですよ。ある種ヒロインなんじゃないだろうか、「ゆっこ」。だって最終話一個前は「みお」、最終話は「なの」の物語じゃないですか。「ゆっこ」の内面の葛藤や深刻な思考については一切言及されない。彼女の哲学を探る手がかりとしてはせいぜい「なの」に語る「忘れてたよ」のあの一節でしょう。私は「ゆっこ」という存在に底知れない深みというか、末恐ろしさを感じますね。アニメにおいて「コイツなに考えてるんだろう」というのは一種の不気味さにも繋がる気がするのですが、そう言う点で神の視点でもある我々視聴者からして「ゆっこ」は不思議な魅力があると言えるでしょう。もちろんその点に於いて「まい」はずば抜けていますけれど、彼女には演出上の恣意的なシーンが複数用意されているので、我々視聴者としても「あぁ、この子はいろいろ考えている子なんだな」という準備ができるんですね。

まぁとりあえずまとめますとね、この話っていのは学校の三人組の主軸と東雲研究所の主軸のダブルスタンダードではなく、「ゆっこ」を中心としたリンクなのではないか、という訳です。これが何を指すのか、京アニの、「日常」作者の狙いはっ!? なんていう深読みも甚だしいところまではオタクっぽくて恥ずかしくて言及しませんが、なんというか『「日常」は何故売れないのか!』とか、『萌えアニメとしての「日常」』とかそういう批評的な観点じゃなくて、「日常」っていうそのもの作品論評っていうのをする人がいてもいいんじゃないかな? と思ってこうやって書き付けました。

本来なら顔見知りの友人たちに話すところですが、もう最近はぼっちなので話し相手がいなくってですね、ははっ、こういうところで雑談めいたことをさせて下さい。



以上。





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